ハルムスの作品






   詩作品

 ハルムスは長らく子供の詩を書く作家として有名でした。それは、ハルムスが望んでそうなったわけはなく、大人用に書いた詩はすべて検問を通らなかったからでした。ハルムスは大人むけの実験的な詩で成功することを切望していましたが、生前には叶わず、ここで目にする大人のための詩は、すべて小さなサークルの中で公開されたか、または死後に発表されたものです。
 訳者として、ハルムスの詩に触れるとき、私はしばしば首を傾げます。ハルムスの目指していたものは、「音のジェスチャー」、「意味のある無意味」といったものでした。音のジェスチャー、というのは、音が言葉によって意味を構成するのではなく、音だけで何かの意味を表現している、ということだと思います。日本人はよく擬音語を使う民族ですから、これは私たちにはわかりやすい概念かもしれません。ハルムスの詩は、実際、豊かな音の世界でもあるのです。ただ、音というのは各言語によって個別ですし、そのジェスチャーも人によって異なるでしょう。翻訳するのは大変な苦労です。
 「意味のある無意味」というのは、ハルムスを考える上で、大変に面白い言葉だと思います。意味はない。が、言葉一つ一つにとらわれず、音の流れそのものに身をゆだねたとき、物事の本質的な意味がみえてくる。
ハルムスの詩を読むと、「く、くだらない・・・」と呆気にとられることが幾度もあります。意味がどうしてもわからない時もあります。けれど、翻訳する上で、最初に解釈をして、何度も試行錯誤を繰り返しながら読み返すうちに、作品世界が自分の内面によって、がらりと変わってしまうことに気がつくこともあります。その時ハルムスの詩は、無意味だけれども、意味を持ちはじめるのです。


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  散文作品 


 ハルムスの散文は、ハルムスを理解するうえで大変豊かな資料でもあります。散文には、ハルムスの詩の世界が、詩よりもわかりやすい形で提示されているのです。ハルムスの散文は、形式として散文の形を取っているだけで、本質は詩作品であるともいえます。そして、その創造の過程でハルムスが試みたことも、やはり詩作品と同様ではないでしょうか。
 つまり、現実世界で私たちが囚われている様々な記号から解放し、記号としての言語を無力化することで、言葉の意味それ自体がありのままの姿で遊びだし、そこに新しい秩序を造り出すのにまかせ、そのことによってこの世界を違う角度から眺めること。
 私たちが常識でこうだと思っている世界は、本当にそういう姿をしているのか。
 ハルムスの散文が数々の奇妙なディティールの中から浮かび上がらせている問いは、私たちの足場をゆるがせます。しかしその揺るがし方は、時に真摯に本当の現実を見つめさせ、また時に不思議に心地よい陶酔を味あわせるのです。


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  戯曲作品

 ハルムスの戯曲はどれも非常に短く、コントのように滑稽な内容であったり、空想的で不条理な、上演する側にとってはいくつもの解釈が可能なものです。一場面だけを切り取ったようなものや、途中でぶつ切れているものも良くあります。単なるアイデアのようなものもあります。
 ハルムスはおそらく、上演されることを念頭に置いて書いてはいないのじゃないかと思います。戯曲、という文章形態だけが気に入っていたのではないでしょうか。
 実際上演する側にとっては非常に不親切な戯曲の数々だと思います。
 けれど劇場の実際面を考慮していないために、ハルムスの戯曲はかえってとても自由で創造的だということも言えます。のびのびと自由な、豊かな発想とイメージの世界を愉しむ事が出来ます。そのため近年映像作家によってハルムスのテクストが使用される機会も多くなってきました。多くのクリエイターたちがハルムスの世界にインスパイアされ、作品に反映させています。
 また、戯曲の中には面白い音や言葉遊び、早口言葉や変な言い回しが沢山出てきます。ロシアの演劇学校では、よくハルムスの戯曲や詩が練習用のテクストとして使われます。
 これは、残念ながら、とても翻訳しきれない部分ではありますが・・・。


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