キョン・ユン
 

(1)


 キョン・ユンは韓国人の女の子である。ロシア人と並んでも体格負けをしないくらい背の高い子で、ちょっと強そうな顎に、つりあがった一重の目をしている。年は私よりも二つ上。ということは、入学した時にはすでに27歳だったはずである。
キョン・ユンは韓国の演劇大学を卒業していて、卒業後、しばらくその演劇大学で事務員として働いていた。でも仕事は忙しい上に報われないもので、そのうち将来は演劇の講師になりたい、できれば自分で学校を作りたいという大きな野望を持つにいたり、「どんな苦労も耐え忍ぶつもりで」、それにまた「まあなんとかなるだろう」と楽観もしつつ、はるばるロシアまでやってきたのである。
 キョン・ユンは私と同年に、アンドレエフという先生のクラスに入学した。本当は私と同じフィリシュティンスキー氏のクラスに入りたかったのだが、レベルが高く競争率も厳しいフィリシュティンスキークラスはロシア語のまったく話せない外国人は受けつけてくれず、もっと若くて知名度が低い代わりに才気煥発なアンドレエフのクラスに入学したらしい。
 その当時、キョン・ユンはロシア語をはじめてまだ2ヶ月。カタコトどころか、字も満足に読めない状態だった。だからキョン・ユンは一年生の頃、一人で私に会うのさえ恐れており、私が自分のアパートに遊びにこないかと誘ったりしても、必ず自分よりロシア語のうまい韓国人の友達を連れてきたものだ。
 まったくロシア語を知らないで演劇大学に入学してくる留学生は、結構いる。結構いるというよりは留学生の大半が入学してから始めるとか、初めて2ヶ月とか、そんな状態で来るのが普通である。「気合があればなんとでもなる」と、演劇を専門に選ぶような人間は思いがちである、というひとつの証拠のようなものかもしれない。

 私とキョン・ユンが出会ったのは、忘れもしない、演劇大学の別棟にある学生食堂のなかだった。キョン・ユンは顔見知りの韓国人と一緒にいた。まだ一年生の、最初の時期である。
「この子、日本人。あんたと同じ、一年生で、フィリシュティンスキーのクラスだって」と、その顔見知りの女の子はキョン・ユンに私を指し示し、キョン・ユンは私を見て、
「よろしく」と言った。私が、アンドレエフのクラスではどんな課目があるのか、マスチェルストヴォでは今何がテーマとなっているか、エチュードはつくっているか、誰とつくっているか、レーチの先生はだれか、など根掘り葉掘り尋ねると、キョン・ユンは目を白黒させて、それでも一生懸命ロシア語で答えようとしてくれた。
ダンスの授業の話になった時、キョン・ユンが
「ロシア人ってスタイルいいから、もうレオタードがはずかしくってねえ・・・」というので、心の底から共感を覚えた私は、そうなの、そうなの!と紙ナプキンに自分のレオタード姿の絵を書いて、私なんかお腹はこんなで、それで太腿がさあ、と彼女に見せた。その絵は、我ながら憂鬱になるくらいリアリスティックなものだったが、キョン・ユンはその絵を見て、はっはっはと大声で笑った。
 それがまた突き抜けるような陽気な笑い声で、キョン・ユンというとその笑い声が浮かぶ。その後のつきあいから次第にわかったのだが、キョン・ユンは不幸のどん底にあっても、何故かニヤニヤ笑っているような、少しつつけばすぐ笑い出すような陽気な女の子なのだった。
 それから私たちは、廊下で会ったり、食堂で会ったりするたびに立ち話をするようになり、だんだん親しくなっていった。
私の入学した年は留学生が少なく、特にドラマ演劇科には学部全体でたった5、6人しかいなかった。そのうちのほとんどはフィンランドとかポーランドとか、言葉のわりに近い国の出身であり、彼らは少しアクセントがあるくらいでロシア語は最初からペラペラしゃべる。そのなかでキョン・ユンと私だけが純粋に外国人らしい留学生で、だから私達がクラスを超えて仲良くなるというのは、言ってみれば必然だった。

 キョン・ユンは当初から打ちのめされていた。
クラスの中でたった一人の外国人であること。16、7歳の子供が中心のクラスの中で、一人だけ年をとっており、にも関わらず言葉が壁になって赤ん坊のような存在にならざるを得ないこと。元来人つきあいは好きなのに友達も出来ず、それなのに金を貸してくれとだけはしょっちゅう言われること。授業にはついていけず、何が課題かはっきり理解できないから怖くてどんなエチュードも見せることが出来ず、しかもそれはサボっているせいだと理解され、違うのだと説明も出来ず、そのため自分の先生と目も合わせられないこと、そこに韓国にいるボーイフレンドとの遠距離恋愛や、私費留学であることへのプレッシャーなどが加わって・・・とにかくもう、無闇やたらに憂鬱な状態だった。
 ここで大切なことは、私もまた、無闇やたらに憂鬱な状態だったということである。
 上に列挙したキョン・ユンの憂鬱は、そっくりそのまま私の憂鬱でもあった。キョン・ユンよりもロシア語こそ少しましだったけれど、いずれにしろ演劇大学の厳しい授業に間に合うようなレベルではない。日を追うごとに虚無感が募り、何をやってもダメだった。クラスメートや教師達は陽気で親切だったが、それでも優しい言葉をかけてくれる人がいると、食い入るようにその人の顔を見てしまうほど孤独であった。
 しかも演劇大学の授業は朝の九時半から夜の十時まで、月曜から土曜まで、時には日曜日にまで食い込んでくる。暇な時間がないのはまあいいが、四六時中「私はダメだなあ・・・」と感じていなくてはいけない。いやはや!私はよく、人生がテトリスだとしたら、落ちてくるピースが多すぎてどうやっても間に合わず、ゲームオーヴァーまであとニ、三のラインしかない。しかし、ピースは非常なスピードで落ちてくる、落ちてくる。私は必死で右往左往する。しかし上から、次々と塊が落ちてきて、ああ、今にも、今にも!・・・という状態なのだなあと感じたものである。
 私達は、ほんのニ、三言ですべて分かりあうことができるほど同じ悩みを共有していたので、一旦話し出すともう止める事ができなかった。本当に、キョン・ユンの愚痴話の一言一句が自分のもののように思われたほどである。
 それだけでなく、キョン・ユンというのはさっぱりした正直な気性の人で、落ちこんでいてさえひょうきんで、カタコトのロシア語でも、話していると面白いところがあった。精神風土も似通っていて、同じB型であり、酒好きであり、ついつい食べ過ぎる傾向にあり、社交的であり、無駄な努力が嫌いであり、そのためにしばしば自分の仕掛けたトラップに自分ではまるようなところがあり、生まれて初めて美人だ美人だともてはやされてちょっと良い感じになっているところも似ていた。
三年の長い期間を通して、私とキョン・ユンの間にどれほど強い同士愛が生まれたか、滅多やたらな人にはわかるものではない。

 もっとも私たちはそれほどしばしば会ったり話したりしていたわけではなかった。お互いの教室も遠くて、しかもキョン・ユンはしばしば学校を休むので、せいぜい月に一度か二度偶然廊下や食堂で会うと立ち話をするくらいのものだった。
けれど、その月に一度か二度、たとえば学校のビュッフェなどで顔を合わせると、お互いの顔が途端に輝く。別の誰かと一緒にいても、話の途中でも、「あ、ごめん、友達が」とすぐに切り上げて、お互いのほうへふらふらと寄っていくのである。そうして、一時間半の長い昼休みの時間を何もしないでひたすら話しこむ。ぼそぼそぼそぼそ、あんな事もあったこんな事もあった、あれが辛いこれが辛い、どうやって切りぬけていこうか、と話題は尽きない。
 
私達が話しこんでいると、時々ロシア人の同級生が脇を通りぬけ、にやっと笑ったりした。何しろロシア人には同じように見える日本人と韓国人の二人が、ビュッフェの片隅に背中を丸め、カタコトのロシア語で不幸そうに愚痴をこぼしあっているのだから、それは変なものだったろうと思う。 
 今にして思えば、お互いそれほど良い影響を与えてなかったなと思う。
例えばキョン・ユンは私の影響で講義に通うのを止めたし(私が「一言もわからないのに、あほ面下げて教室に行って、ただウトウトしてるだけなんてばかばかしくって!」と言ったのだ)、私はキョン・ユンの影響で時々登校拒否をするようになった(キョン・ユンが「私たちはロシア人の学生と違って、お金を払って勉強しているんだから、自分の好きなように勉強していいと思うんだ!」といったのだ)。ちょっとズルそうな、情けなさそうな、自己嘲笑的な微妙な笑い方は、二人共同でつくりあげたものである。話すことといったら、ひたすら愚痴・愚痴・愚痴、弱音・弱音・弱音。前向きな話題なんて出てきやしない。ためにならない友達だといわれれば、何も私は否定しない。その通りである。
 それでも私は、キョン・ユンが韓国で事務員を続けず、一念発起して演劇大に留学し、あの時あの場所に居合せてくれて本当に良かったと思う。どんなに私はキョン・ユンに気持ちを慰められたかわからない。    

                                (2)

 二年生の時の大晦日には、キョン・ユンは私を自分のアパートに招待してくれた。
なんと演劇大学ではその日も昼間は授業があった(ついでにいえば、クリスマスにも、クリスマスイブにも授業があり、新年明けて最初の授業は2日からであった)。
その時おもての気温はマイナス27度であり、学校から帰ると私は瀕死みたいな状態になった。もう外に出る気がせず、誰とも会いたくなかったので、いっそ一人で新年を迎えようとキョン・ユンに電話をかけた。ごめん風邪気味だから、とドタキャンをきめたのである。
そうして自分一人のためにキオスクで赤ワインのなるべくアルコールの強いやつとシャンパンを買い、やけくそ気味で勝手に乾杯していると、九時頃になってキョン・ユンがまた電話をかけてきた。
「どう、風邪・・・?」という。
「うん、まあまあ・・・へへっ」 風邪云々はまったくの仮病なので、照れくさくなって意味なく笑うと、キョン・ユンは持ち前の太い声で、
「料理を作りすぎちゃって、食べきれないの。それに友達にも紹介したいし、私の家にいい風邪薬もあるし、もしよかったら、今からでも来ない?ねえ、おいでよ」という。それから、なんだかおずおずとした調子で、
「それに、あの、新年を一人で迎えるなんて、よくないよ」
 こうまで言われて、NOと言える日本人はいない。やはり仮病でドタキャンはなかったと反省し、まだ開けてないシャンパンを鞄に放りこむと、私はオーバーを着こんでキョン・ユンの家へ向かった。

 表へ出ると、途端に寒気で息が止まりそうになり、咳き込んだ。すこし雪が降っていて、そのおかげで大晦日だというのに物音ひとつせず、人通りもなかった。街灯だけがオレンジ色の光で僅かに雪を照らしていたが、それはなんとも心の凍るような光景で、出たはいいものの本気で引き返そうかと思ってしまったくらいである。
 そのとき私はキーロシナヤ通りのアパートに住んでおり、そこからタヴリーチェスキイ庭園の脇にあるキョン・ユンの家までは歩いて20分もあった。バスもトロリーバスもタクシーも、見渡すかぎり一台も動いておらず、やはり歩いていかねばならないようだった。
 
20分くらいでぐずぐず言うな、という人は、マイナス27度を、ペテルブルグの不気味な夜の道を、自分の吐く息以外なんの音も聞こえない雪中行軍を知らないから言うのだ。それはそれは、本当に大晦日なの、と反問したくなるくらいに、めでたくないものだった。
 しかし、行くと返事したからには、仕方がない。私は凍った雪道を歩き出した。
 キョン・ユンのアパートを訪ねるのは初めてだった。タヴリーチェスキイの脇に住んでいる事は知っていたが、正確にはどこなのか、私は知らなかった。
 その旨を電話で伝えた時、キョン・ユンは、
「うん、うん、それね、それだけど、あの、タヴリーチェスキイ公園がある。そ、・・・うん、よ、横に武器博物館があるから、そこへ40分たったら迎えに行きましょうよ」とちょっと怪しいロシア語で答えた。キーロシナヤ通りをまっすぐまっすぐひたすら行くと武器博物館である。
 ところが素早く支度をしたのと、この零下にキョン・ユンを待たせてはいけないと珍しく速歩きしたのとで、なんと五分以上も早目についてしまった。
 五分と人は簡単に言うが、マイナス27度の中の五分である。
 二十分
も雪中行軍をしたあとの立ち止まっての五分である。何度も言うようだが歯の根があわないくらいすでに凍えてしまっている時の五分である。待っている間に死ぬのではないかと私は思った。
 しかもキョン・ユンの野郎が、約束の時間を過ぎても、一向に現れないのである。約束の時間から1分経ち5分たち、10分経っても現れない。

 殺ス気カバカヤロウ、となるべく北野武のような顔で言ってみて、ちょっと右肩を揺すりあげたりして、自分の気持ちを愉快な方へ持っていこうと努力してみた(これは、ナチスの収容所に収監されていたユダヤ人の医師が、仲間の囚人達に1日ひとつ冗談を考えさせて彼らを絶望から救ったという故事による)。が、最初の方こそちょっとニヤッとできたものの、立ちはじめて10分を経過したあたりから、どうにもこうにも気分が落ちこんできた。
もしかしたらキョン・ユンは、どこか別の場所を指定したのに、それを私が間違えたのではないだろうか。このまま待っていてもキョン・ユンは一生やって来ないのではないだろうか。そんな弱気な思いが心を支配した。
 そのうちに耳がもがれるように痛くなり、つま先が痺れてなんの感覚もなくなり、ただでさえ弱い私の肺が外気を受けつけなくなってきた。がくがくぶるぶる震えるその身体の震えと、呼吸の早さが同じくらいになってきた。もうこうなると、20分の道のりを引き返して自分のアパートへ帰ることもできない。
 絶体絶命のところへ、大晦日の夜の十一時に、博物館の前で一人ふらふらしている女の子を不審に思ったロシア人のおばさんが犬を連れて近寄ってきた。
「ちょっとあなた、大丈夫?博物館はもう閉まってるのよ?」

 私に吠えかかる小型犬をシ!シ!と制しながらおばさんが言った。ロシア人には、こういう風に、困っている人を見ると事情を知りに駆けつけてくるような、親切な人が時々いる。
「あの、すすすすみませんが、ここらへんにこ、公衆電話はありませんか」凍えてよく動かなくなっている口を必死で動かして言った。
「友達とここで待ち合わせているんですが、こ、こないんです」
「ないわね」おばさんは生粋のロシア人らしいきっぱりした語調で言った。
「ここには公衆電話みたいなものは全然ないわ。長年ここに住んでるけど、見たことないもの。ここから20分くらいのところにひとつあるけど、遠すぎるでしょ」
「それじゃ、あの、け、け、携帯電話を持っていらっしゃいませんか?お金は払います!お金は払います!」
 金は払う、というこの語調が、寒さのために口が開かず、切実というよりはやたらと横柄な感じになってしまった。その言葉尻の粗さが、ふとおばさんの心に疑いの影をよぎらせたらしい。おばさんは不審そうな顔になると、あわてて、
「いいえ、携帯電話なんてありません。持ってないの。ごめんなさいね」といった。
「それじゃ、・・・あの!お、お、お宅はすぐお近くですか?もしよろしければ、お宅にちょっとだけお邪魔して、そこから電話をかけてはいけませんか?」
 他人同士の垣根を一気に越えるこの思いがけない提案を、おばさんは違う風にとったらしい。早口で、
「いいえ、いいえ、うちは遠いし、電話がないんです。お役に立ちたいんだけど、ごめんなさいね」
 電話がないなどと、にわかには信じかねる断りを言い、おばさんは気の高ぶっている小型犬を連れて、すっと離れていってしまった。ロシア人の親切の典型的なパターンである。
私は去ってゆくおばさんと小型犬の後姿を見送りながら、
 ジャア何ニモ聞クナバカヤロウ。
 
とまたしても北野武の物真似でその場の遣りきれなさをしのいだ。
 その時、道路の向こうに裾の長いダッフルコートを着た人影が現れた。キョン・ユンのダッフルは白いはずだが、このダッフルはピンク色で、姿もひとまわり小柄である。顔を見るとアジア系ではあるものの、キョン・ユンではない。ところがこの小柄ピンクダッフルが、私のほうに手を振りながら、信号を無視してこちらの方へ横断してきた。そうして、
「ハルカ?はじめまして。あの、キョン・ユンはね、今料理をつくっていて手が離せないの」と韓国人にしてはアクセントのないロシア語で言ったのである。眼鏡をかけたきれいな子だった。韓国人は辛いものばかり食べるから美人が多い、という説を裏づけているようだった。
 その時の嬉しさといったら!
 腹が立つというより、ついに誰かが迎えに来てくれた、これで私は救われたという感激で胸が一杯になってしまい、満面の笑顔で、
「はははははじめまして」とその女の子を抱きしめた。
「随分待った?ごめんね」と言われた時には、さすがに何かちくりと言ってやりたいと思ったが、私は気の弱くて、大嫌いな相手でもなければはっきり物が言えない。つい、
「ううん。ううん。それほど待ってないよ」とがたがた震えながら答えた。それに、これから一緒に新年を祝うというのに、ここで嫌われては大変である。 
今から思うと、その判断は大正解であった。

 そこからキョン・ユンのアパートまでは5分ほどだった。
 部屋に入ると、途端に暖気がふわああと私を包みこみ、身体中の毛穴から一気に、氷が溶けるみたいに緊張が抜けてゆくのがわかった。 人生におけるもっとも幸福な瞬間のひとつである。
 玄関口にはいると、韓国人の女の子がバラバラと四人も五人も奥から出てきた。彼女らは、私のジャンパーを脱がせてくれ、帽子と手袋を預かってくれ、鞄を受け取ってくれた。びしょぬれのブーツを受けとってくれたり、「寒かった?」と聞いてくれたり、至れり尽くせり面倒を見てくれた。みんなロシア語は苦手らしく、先ほど迎えに出てくれた女の子だけがまあまあ語学に秀でているので出迎え係に任命されたらしい。この子はペテルブルグ大学で文学かなんかを勉強しているという。
 キョン・ユンのアパートは、3人の韓国人の女の子が共同で借りていて、私のアパートの3倍はあった。それぞれの部屋がまあ広くって、キョン・ユンの部屋が特に広い。テレビありビデオありパソコンありMDステレオありソファあり、何でもある。とにかくいい部屋だった。韓国というのは日本以上に年齢による序列社会であり、キョン・ユンは一番年上なので一番いい部屋をゲットしたらしい。
 
この部屋に大きな座卓を持ちこんで、韓国人の女の子達が大集合していた。
 ペテルブルグ大学の院生だという見上げるほど大きな子、小柄ピンクダッフルの美少女、コンセルバトーレでヴァイオリンを勉強しているぽっちゃりした子、コンセルバトーレでピアノを勉強している、8年もロシアにいるという美人、どこか分からない大学でなにかを勉強している子(その子はロシア語がぜんぜん話せなかったので、自己紹介ができなかったのだ)、演劇大学の人形劇学部にいるという随分年を取った小人みたいな女の人・・・次々と紹介されて、その名前が難しすぎて繰り返すことも覚えることもできず、目をくるくるさせていると、台所からキョン・ユンが駈けこんできて、
「オウ、はるか、いらっしゃい。いま、肉を、肉が、肉を、肉、肉・・・」といったなり、ぐっと言葉に詰まったらしく、何かのジェスチャーをしながらニヤッと笑って、院生を連れてまた出ていってしまった。
 
大きな座卓に目をやると、そこには山のように料理が並んでいたが、どれにもあまり手をつけていなかった。私の横に座った小柄ピンクダッフルが(ダッフルはもう脱いでいたが)にっこりして、
「ああ、ハルカが来てくれてよかった。キョン・ユンは本当に朝から楽しみにして、ハルカが来るから来るからってずっと言ってたのよ」と言った。どうやら私が来ることをあてにして、料理に手をつけずに待っていてくれたらしかった。まったく、約束をドタキャンとか、仮病とか、するもんじゃない。
 BGM代わりにつけっぱなしになっているテレビでは、紅白歌合戦みたいなロシアの新年特番が極彩色の大騒ぎをしている。久しぶりに観るテレビに目を奪われていると、すかさずコンセルバトーレのヴァイオリニストが私のグラスに赤ワインを注いでくれた。そのうちに、キョン・ユンと巨大院生が湯気の立っている大皿を抱えて「お待たせ」と入ってきて、「これ、韓国の伝統料理よ」と焼肉料理を見せてくれた。
 地獄のような氷の世界から、人生はまさしく奇跡のような変転を遂げたのである。一瞬私はもう死んで天国にいるのかなと思ってしまった。
 その場にいる韓国人の女の子達は、韓国人の常として、ロシア語をうまく話せない子達ばかりだった。八年もロシアにいる美人ピアニストは、八年もいるというのにロシア語は超ブロークンで、恥ずかしいらしくて終始無言で通したほどだ。あまり黙っているので会話に困って、
「私の家の大家さんはね、ユダヤ人で、なんとルビンシュテインっていうのよ!」とコンセルバトーレ向きの話題を振ってみたが、反応が超微妙で、こっちを見たまま返事をしないので、
「・・・知ってる?」と聞くと、やっと「ダー」と答えた。
 そんな感じのみんななのに、その場でただ一人の外国人である私に気まずい思いをさせてはいけないという使命感からか、韓国人たちはお互い同士の間でもなるべくロシア語を使って話した。そのおかげで「これどうぞ」とか、「私ヴァイオリン勉強しています」しか言えず、結果的に黙ってテレビを見つめる羽目になったりしながら、私が孤独でないように、かゆいところに手の届くような気の使いようだった。
 私が手土産のシャンパンを差し出すと、みなは何故か笑い出し、部屋の片隅を指差した。そこにはシャンパンのボトルが3本、ワインのボトルが3本、ビールの大きなペットボトルのやつが2本、ウォッカまでもが置いてあった。
「韓国人はアル中か??」というと、みんなこぞって、
「そうなの、そうなの」と嬉しそうに笑った。

 そこから私たちの大宴会が始まった。美人ピアニストは何も食べずに酒ばかりがぶがぶ飲み、童顔ぽっちゃりのヴァイオリニストは酒が飲めないらしく黙って食べ続け、人形劇学部の小人は飲まず食わずで喋りつづけ、その間にキョン・ユンと院生と私は酒が入ると箸が止まらなくなるという共通点があることを発見した。
 韓国の佃煮は、日本の佃煮と味がそっくりで、しかもちょっとピリッと辛味が利いてるので、白米と一緒だと無限に食べられてしまう。私は実家ではもうやめとけと言われてばかりいるのだが、ここでは誰もそんなことを言い出さないので、いい気になって三杯飯を平らげてしまった。キョン・ユンは酒が入るごとにだんだん朗らかさの度を増していき、180センチ近く身長のある院生と二人でだんだん男みたいになっていき、不自由なロシア語で言う冗談もだんだん磨きがかかっていった。というよりも、聞いているこっちも酔っ払ってきて、何でもかんでも面白くなってきたというほうが正しいかもしれない。
 テレビの中のコメディアンが、
「新年に、上のほうでキラキラ光る白いものってなあんだ?」
「ニコライさんのフケ?」
「そりゃ一年中だろ!」などとしょうもない事を言うのにさえ笑っていると、女の子達が不思議そうな顔をした。今言ってたのはこういう事で、ペールホチというのはフケのことで、と説明すると、彼女たちは目を丸くして、
「本当にロシア語がぺらぺらなのね!」と言ってくれた。
 私は不覚にも涙がこぼれそうになった。普段ロシア人の同級生たちに、ハルカのロシア語、といって真似されてばかりいる私のロシア語、店の売り子からは乱暴にアア?と聞き返されてばかりいる私のロシア語、もういつでも、300円くらいで売り飛ばしてもかまわないと常々思っている私のロシア語に、目を丸くして感心してくれたのはこの韓国人たちが初めてなのだった。 
 そのうち、キョン・ユンにクラスメートの男の子から、新年祝いの電話がかかってきた。私たちは、目を丸くし、興味しんしんでキョン・ユンの会話に耳を立てた。それからお約束のように、誰だこれは!どんな外見か!写真を持っているか!韓国にいる彼氏はどうなるんだ、知っているのか!という話になり、それから何故か韓国の徴兵制についての話になったりした。韓国の女の子達は、徴兵制について話す時には、何となくしんみりとして女らしい態度になる。日本人にはない特徴の一つである。
 時は流れるように過ぎ、そのうちテレビでは、大統領プーチンが新年恒例の演説を始めた。このプーチンの演説を、去年はネフスキー通りのカフェで稲田さんと二人で聞いたっけなあ、一昨年はモスクワの赤の広場で聞いたっけなあ、その前は日本にいて、家で家族と一緒にいたっけと、いろいろな感慨が頭をよぎった。短い演説の後に、新年の鐘が鳴リ響き、ロシアの国歌が流れ出した。
 こうして私は2003年を、韓国人とともに迎えたのである。
 国歌を聞き終わると、女の子達は何事か相談しあったあと、テレビのスイッチを切り、明かりを消して、ロウソクに火をつけた。コンセルバトーレの女の子がヴァイオリンをケースから取りだすと、みなは姿勢を正した。ヴァイオリンを弾く人の、楽器を構えるあのポーズは、何となくひたむきで好きだ。
 
ぽっちゃりした童顔のヴァイオリニストは、どことなく田舎っぺえみたいな素朴な雰囲気のある子で、髪の毛を短くし、化粧っ気もない。時々話すロシア語も訥々として、無愛想なような、引っ込み思案のような、人馴れのしない感じだった。年はまだ若くて、二十二か三くらい。でも音楽の世界ではもう年寄りだそうだ。
 彼女はおもむろに緊張した面持ちで弓を構え、何やらきれいな曲を弾き出した。
 ところが、である。

 何かがおかしい。

 曲はきれいなのだが、あまり上手くないのではないだろうか。上手くないというよりは、正直、下手でさえある。彼女は名門コンセルバトーレの学生。そんなはずはないのに。
 
もちろん、私だって名門ペテルブルグ演劇アカデミーの学生なのに演技が上手くない。これと同じ話かもしれない、とも思ってみた。が、演劇では何が上手いか下手かよく分からないようなところがあるのに比べ、音楽では厳然と「技術」というものが存在しているはずである。彼女のヴァイオリンは、あっけに取られるほど意外なものであった。ロウソクの光の中みんなの注目を一心に集め、彼女のヴァイオリンは突然キッチキッチいう音を出した。明らかに間違ったという感じでリズムが変わったり、変な風にギコー・・・キュッとなったりした。テクニックなのか?と思ったりもしたのだが、あれがテクニックだったら、テクニックというのはずいぶん音楽から美しさを奪うものである。私は首をかしげた。
 彼女は演奏が終わると、私はあがり性で、もう10年以上ヴァイオリンをやってるけど、今でも人前で演奏すると間違えちゃうのと言った。みんなが笑うと、彼女もちょっと笑って、顔を赤らめながら、
「これ、先生の前だと、もっと悪い」とぼそっと言うのである。
 もう一曲!とそんなこと聞いちゃいない酔っ払った院生にリクエストされて、もういいよと照れながらも、彼女はまたもや真剣な面持ちで弓を持った。
 次の一曲は、ギギギギギリリー・・・キュッという曲だったが、緊張が取れてきたのか、前の曲ほどしっちゃかめっちゃかではなかった。軽快な面白い旋律の曲で、注意深く聴いていると、ヴァイオリニストは間違えながらもちゃんと自分なりの筋立てを追いながら演奏しているように思われた。無表情な子だけど、ロウソクに照らされた顔が演奏につれてちょっとづつ変わってゆく。何を考えているんだろう、とふと思った。
 そういえばベンヤミン・ミハイロヴィッチは常日頃授業で、エチュードを作る時に一番意識しなければいけないのは、そこで何が起こっているかという事だ、という。
どういうスタイルでやるか、どういう風に見えるか、どういう風に聞こえるかではなく、どういう事態が進行しているかを第一に考えろというのだ。技術のことは考えるな、意味を考えろ。演奏にもやはり、その曲の中に存在する意味を追ってゆくということがあるのだろうか?
 そんなことを考えながら聴いていると、私はいつの間にかヴァイオリニストの顔に見入ってしまっていた。すると、なんだか突然しみじみとして、ああ、きれいだなあ、人生は美しいなあと思った。こんな瞬間の連続が人生なのだったら、この魔性のペテルブルグも、あのぶっちゃけ阿呆揃いの日本も、どんなにか住みやすく、きれいな所になるだろうと思った。そうしてみると、ロウソクの灯りも、新年も、真面目に姿勢を正して聴く女の子達も、ヴァイオリンも、それはもう綺麗なのだった。
 才能とか、表現とかいうのはつくづく面白いものだと思う。
 
音楽の素養のない私にもわかるくらい下手なあがり性のヴァイオリニストは、おそらく才能はないのだろう。将来有名になったり、絶対しないだろうなという気がする。一方で、彼女のヴァイオリンを聴いて、私はつくづく、その場にいられることの幸福を感じていた。ああ来て良かったなあと思ったし、マイナス27度のこともすっかり忘れて、その場の雰囲気にうっとりし、それから彼女のヴァイオリンとその周辺の事柄について、いろいろな事を考えた。そういう事は、やはり何か本当の芸術に触れた時にしか起こらないものではないだろうか?
 つまりは、才能はないかもしれないけれど、こうやって聞く彼女の音楽の中には、確かに芸術みたいなものがあるなあ、と思ったのだ。才能ある人の音楽を通してだって、芸術が自分の内面と直に関わってくると感じられることは、そうそうない。
 例えばマリインスキー劇場でバレエを観たりしても、やはりうっとりして、なんて綺麗なものがこの世にはあるんだろうと思う。そうして、日常のごたごたを一瞬忘れ、バレエとその周辺の事柄について色々考えたりする。しかし、ロシア中の一流の才能の結集であるマリインスキーが寄ってたかって私にくれる芸術と、この友達の前でさえ緊張して間違える学生ヴァイオリニストのくれる芸術と、どっちがどちらより上か下かなんてことがあるだろうか?
 もしヴァイオリニストが将来有望な天才少女だったとしたら、私の幸福はもっと大きかったのだろうか?今のがレベル5くらいだとすると、レベル8くらいにはなったのだろうか?
 
けれど、もしここにいるのが天才少女だったら、例えば酔っ払ってもう一曲!とリクエストした院生は、あれほど心配そうにヴァイオリニストを見守ったりしないだろうし、その友達らしい優しい顔つきがなかったら、私の幸福感は、幾分かレベルを落としさえしたんじゃないかと思う。それは表現とは関係のない、外の事情だろうか?しかし場というものは確かにある。どこで演奏するか、誰のために演奏するか、どのような状況下で演奏するか。私は演劇という、すべてがごっちゃ混ぜに大切なものが専門だからかもしれないが、やはり観客に直接影響を与えることはすべて、いずれ芸術の一部だと思うのである。
 そうして突然私は天恵のようにして、表現とか芸術とかいうものは、才能とか技術だけじゃない、その程度のものではありえないという結論に達したのである。すると私はなんだか気持ちが晴れ晴れしてきて、すっかり嬉しくなってきてしまった。多分酔っ払っていたからだと思う。 

 そのうちキョン・ユンが歌い出した。キョン・ユンというのも演劇大出身なだけあって、いきなり立ちあがって唐突に歌い出すということの出来る人なのである。するとヴァイオリニストはヴァイオリンで伴奏をつけだした。韓国語なので、どういう歌なの、と聞いたが、うう・・・と唸って誰も説明してくれなかった。それで意味は未だに不明なのだが、きれいな優しい節回しの歌で、しかもキョン・ユンの声はなかなか聞き心地の良い声なのだった。韓国の有名な歌手の持ち歌なのだそうだ。
 それから彼女たちはバラバラといろんな歌を歌って、韓国国歌まで歌ってくれた。君が代みたいな感じを想像していたのだが、アメリカ国歌みたいなマーチ風のものだった。しょっちゅう歌詞を間違えて、音程もはずして、ヴァイオリニストも間違えてばかりいるので、韓国では国歌を滅多に歌わないの?と聞くと、酔っ払っているからよ、酒のせいよ、酒よ、との答えだった。

 私もリクエストされて、君が代を歌った。ヴァイオリニストが伴奏をつけてくれようと頑張ったのだが、どうにも音がとれないらしく、うまくいかない。悪戦苦闘する彼女を横目で見ながら、やっぱり才能ないなあと思った。それにしても、韓国人の集団の前でひとり君が代を歌うという微妙な状況に、私もすごいことをするもんだとちょっとニヤニヤしてしまったが、女の子達はあっけらかんとしたもので、
「きれいだわ、美しいわ。日本って感じがするわ」と口々にお世辞をいってくれた。

 それから、デザートのケーキが出た。その頃にはもう満腹というより、食べ過ぎて気持ちが悪くなっていたのだが、額に青筋を立ててみんなが食べているので、これは義務なのかなという気がして、私も食べた。案の定気持ちが悪くなって動けなくなっていると、キョン・ユンが寝床をつくってくれた。
 キョン・ユンのベッドの上に、電気毛布を敷き、厚い布団をかけて、さあここへ寝ろというのである。私は元来人の家に泊まるのは苦手なので、いや、大丈夫、帰るから、と言ったのだが、まあいいから寝ろという。そうして横になったは良いものの、ピアニストとピンクダッフルと人形劇学部の大人小人は3人一緒のベッドに眠るというし、ヴァイオリニストはソファで毛布一枚で寝ているし、ロシア語の話せない女の子は床で泥酔しているし、キョン・ユンと院生は寝る場所がないから台所で徹夜するかという話である。そんな状況でひとり電気毛布で眠れるのは、ロシア皇帝くらいのものだろう。私はとてもじゃないけど眠れないから、遠慮すると言った。すると女の子達は(まだ起きている子達だけだが)、口を揃えて、まあ!何を言っているの!いいから!いいから!と言い、そうして、遠慮するわ、いいからいいからの押し問答が続き・・・結局私は電気毛布の上で朝まで眠りこけてしまった。
 私は韓国人には頭があがらないなあと思うのは、この夜の経験が基礎になっている。

(3)

 キョン・ユンに話を戻そう。
 キョン・ユンは演劇大学では運の悪い女の子だった。私が最初から何かとツキがあったのに比べて、キョン・ユンの学生生活は一部始終が困難を極めた。
 まず、彼女が最初に希望したフィリシュティンスキーのクラスに入れなかったことは、はじめのほうに述べた。留学生担当のリュドミーラはキョン・ユンが「フィリシュティンスキーの・・・」と一言いっただけで、
「ああ、ダメダメ!」と返したそうである。
 私のほうは、ぽかんとして何もわからなかったところを、その時アカデミーにいた稲田さんという先輩から、
「まあどこでもいいなら、フィリシュティンスキー先生のとこが良いんじゃない。今年のクラスの中では一番有名だし」と言われ、
「会わせてあげるからいついつに、どこどこまでいらっしゃい」と言われ、連絡先とか電話番号とか教えてもらい、実際会わせてもらい、試験の日取りを教えてもらった。試験課目に見当がつかなくて困っていると稲田さんがまた出てきて
「ちょっとだけレッスンを受けてみれば?」とレーチの先生を紹介してくれ、事前にちょっと試験の様子を確かめられたりした。とにかくまあ何もかもがトントン拍子に運んだのである。今から思えばこの稲田さんというのが神様だったのだが、キョン・ユンにはこういう神様がいなかったのである。

 それから、キョン・ユンは条件も悪かった。私は通訳になろうと思ってモスクワに語学留学したのがロシアに来た馴初めなのだが、そのおかげで演劇大に入学した時には、日常会話くらいは何とかなった。キョン・ユンは一言もしゃべれないところからのスタートである。この差が実に莫大なのである。以後、キョン・ユンは、クラスメートから「フィリシュティンスキーのところのハルカは同じアジア系でもちゃんとしゃべれるのに、なんでキョン・ユンは・・・」と比べられ、私の授業での惨憺たる有様を知らないだけに、猛烈にヘコんでいた。
 私はその時25歳だったが、キョン・ユンは27歳になっていた(韓国では生まれた時にすでに一歳と数えるらしい。それで、キョン・ユンはその時自分は28歳だと思っていた。その点でも日本に生まれた私はついている)。
 私はその後、稲田大名神さまから日本には在外派遣芸術家という奨学制度がある事を聞き、稲田さん自身が派遣芸術家になった時の経験談なども聞き、申込み方から何から詳しく教えてもらい、ベンヤミン・ミハイロヴィッチから推薦状まで貰い(これも稲田さんが私の手を引いて彼に交渉してくれたのである)、つつがなく審査を通過して経済的なバックアップを得た。そうして、いい年をして親の負担で遊んでいるという罪悪感を払拭したのである。
 ところが韓国にそういう制度はないらしく、キョン・ユンはまったくの私費留学生であった。ということは、年老いた親から年間百万円以上もの援助を受けていたのである。これがキョン・ユンにとっては非常な苦しみで、特に金持ちではない両親が苦労してひねり出す大金を自分はドブに捨てているといつも自分を責めていた。
 そうして始まったキョン・ユンの留学生活だが、キョン・ユンのはいったアンドレエフのクラスは、フィリシュティンスキークラスよりも更に拘束時間が長く、私のクラスが日曜だけは何とかお休みだったのに比べ、彼女のクラスは週7日体制であった。つまり、休みがないのである。休むとやはり追求を受ける。エチュードを見せなくてもやはり追求を受ける。最初のうちはそれで精神的にやられていたのだが、そのうち何も言われなくなってしまった。フィリシュティンスキー先生は私を特別扱いして、えこひいきのように見えるほど何かと気を配ってくれたものだが、キョン・ユンの先生は、授業が始まって3ヶ月たっても何一つエチュードを見せず、黙りこくっている留学生の女の子を、視界に入れないようにするという方法をとった。
 その当時、キョン・ユンはロシア人の女の子と組になって、レーチの課題のエチュードを作るのだが、そのエチュードも意思の疎通がうまくいかず、惨憺たる出来であったらしい。そして案の定先生から、訳がわからんと酷評を受けた。その講評の場でロシア人のパートナーの女の子が、大声で、
「だってキョン・ユンが何もわかってないんだもの!」と言ったそうである(このエピソードを語った時のキョン・ユンは、韓国人の「恨(ハン)」というのだろうか、そういう情感に溢れており、おお、これが本場の・・・という感じだった)。
 キョン・ユンは一年生の冬に、とうとうストレスから腎臓か何かがいかれてしまい、韓国に一時帰国する。冬休み明けにはロシアに帰ってきたのだが、学校に出て来れず、家で毎日ネットサーフィン・ビデオ鑑賞の日々が続いた。

 それでも時間の経過とはありがたいもので、次第に気持ちが落ち着いてゆき、同居している韓国人仲間の励ましもあって、雪が溶けてくる頃にはまた学校に通うことが出来るようになった。その頃にはようやく、ロシア語で基本的なことは言えるようにもなっていた。
 そこで何か心境の変化があったらしく、キョン・ユンはいくつかエチュードをつくって、見せはじめた。やっと、1日のプランの、エチュードを見せる人のリストの中に、自分の名前を入れてくれとクラスメートに頼めるようになるのである(初めてリストに自分の名を書き加えた時の事を、キョン・ユンは台詞・ジェスチャーつきで嬉しそうに語ってみせてくれた)。1年生の春先である。これまでもアイデアだけは幾つかあったそうなのだが、年がいっているせいもあり、下手なものは見せられないというプライドが邪魔をして、公開まで至ったことがなかったのだ。
 フィリシュティンスキークラスにはなかったが、アンドレエフのクラスには、音楽にのせて動作を展開させていくという課題があった。この音楽を使った演技のエチュードは、それまでクラス中で試みてはいたものの、誰一人ちゃんと仕上げていなかった。アンドレエフ先生もイライラして、どうして分からないんだ、こんな簡単なことが!と怒鳴ったりしたそうである(この先生はよく怒鳴るそうである)。
 キョン・ユンは韓国の演劇大学を卒業しているので、課題の理解ということにかけてはロシア人よりも訳が分かっているところがある。それで、この課題も似たようなことを以前韓国でやった事があり、心中密かに、こうやればいいんじゃないかなという見当があったそうなのである。そこでキョン・ユンはある日このエチュードをつくり、これだけは絶対に見せようと決心した。
 日常的にエチュードを見せているロシア人学生はひょいひょいとエチュードをつくり、それで特に人目も惹かないが、今まで何も見せたことのない留学生のはじめてのエチュードである。最初に、1日のプランを書いている日直の学生に近寄っていって、「今日は私エチュードがあるんだけど」と言うだけで、どんなに勇気がいったことかと思う。そこをぐっとこらえて、キョン・ユンはある春先の、まだまだ寒い日のマスチェルストヴォで、平静を装って決死の覚悟のエチュードを初公開するに至るのである。
 そのキョン・ユンの実質的にははじめてのエチュードを観て、なんと、これまでロシア人の学生の誰一人として課題の意味を把握していないと怒ってばかりいたアンドレエフが、でかした!と手を叩いたというのである。彼は手で学生たちにキョン・ユンのほうを指し示し、ほら、キョン・ユンのエチュードを見ろ。こういう事を俺は言っていたんだ、初めて俺の言った意味を理解してくれる人間が現れた、と絶賛したそうなのである!それ以後クラスメートは彼女のやったような線でエチュードを作るようになったというのだが、一言で言って、勝利である。それからキョン・ユンは、ちょっとづつ自信を取り戻し、自分のペースだけれどもエチュードを作るようになった。彼女の日常に、やっと光が差し始めた。

 そうしてキョン・ユンがやっとやる気を取り戻し始めたその矢先のことであった。二年生のなか頃に、今度はネフスキー通りのマクドナルドで乱闘騒ぎに巻き込まれ、首を痛めてしまうのである。

 ある日私が学校へ行くと、キョン・ユンが首にギプスをはめている。どうしたのか、と聞くと

「ネフスキー通りのマクドナルドで友達とご飯を食べていたら、暴動(бунт)が起こって・・・ゴミ箱を投げるので、人が逃げて、何か起こって、私の上が」というのである。わからんなあと思いながら、腰を落ち着けて聞くと、こういうことであった。 

 その日キョン・ユンが女友達とマックナゲットを食べていたら、バラバラとロシア人の黒服の男たちが店内に入ってきて、大声で何かを叫んだのだそうだ。何を言われたのか分からずぽかんとしているうちに、店内に一杯になっていたロシア人の客たちは先を争って店を出始めた。黒服の男たちは道端においてある大きな重い鉄製のゴミ箱を各自が抱えていたそうだ。そしてそのゴミ箱を窓に向かってブン投げ始めるにいたってキョン・ユン達にもはじめて事情がわかり、彼女らもまた出入り口に向かって駆け出した。ところがそこには人が殺到しており、逃げるに逃げられない客達はもう恐怖でヒステリー状態になっており、誰かが走るキョン・ユンを突き飛ばした。そうして突き飛ばされて転んだキョン・ユンのその上を、何人かの逃げ惑う客が踏みつけていったのである。

 マクドナルドはいわずと知れたアメリカ資本で、ソビエト崩壊後のロシアの中で猛烈な勢いで拡大していった外国企業の最先鋭である。同時に資本主義の象徴のようなもので、ロシア人にとってみれば、新しいシステムにのっかってやってきた、巨大な外国の会社が、自分たちの古くからの働き方や生き方を変え、仕事を奪い、金に物をいわせて国を乗っ取ろうとしている、おい仲間たち!このままでいいのか!というやりきれない気持ちを時に呼び起こすらしい。そこでマクドナルドではしばしば国粋主義者によって爆破されたり、襲われたりという事件が起こる。今回の事件もそういう恫喝事件の中の一つで、キョン・ユンはそれに巻き込まれたのである。

 とはいっても、普通に生活している中で、いくらロシアといえども、こんな事がそう起こるものではない。私も話には何度か聞いているが、その場に居合せたことはおろか、目撃したことさえ一度もない。キョン・ユンというのも不思議な人で、不思議なほど運が悪いのである。


 病院でキョン・ユンは、もう一生涯を通じて、ダンスやアクロバットなどの激しい運動をしてはいけないと言われた。トラウマは精神的にも深刻で、夜中にタクシーに乗ったり、一人でカフェに入ったりできなくなったし、学校からの帰りが遅くなるともう怖くて居ても立ってもいられなくなった。
 そのうち、キョン・ユンはまた塞ぎの虫に取りつかれ、しばらく学校に来ないで家にひきこもっていたが、どうにもこうにもならなくなり、試験も何も受けずに二年生の終わりに逃げるように韓国に帰ってしまった。夏休みの終わりに帰ってくる、とは言っていたが、その暗い、太ってむくんでいる黄色い顔色からして、何となくもう帰ってこないような気がした。

 そうしてしばらく、キョン・ユンの顔を見ない日々が続いた。 
 夏休みも終わり、三年生の前期が始まってしばらくして、私はばったりとビュッフェでキョン・ユンに会った。
 久しぶりに見るキョン・ユンは少し痩せて、顔色も良かった。クラスメートと二人で何か話していたので、ちょっとだけ言葉を交して、私はコーヒーとパンを買って昇降口の二階ロビー、いつもお昼ご飯を食べる場所へ移動した。するとキョン・ユンはすぐにクラスメートを振り切って、私のほうへ早足でやって来た。
「帰ってきてたんだ。会わなかったね」というと、
「何度かハルカの教室に会いに行ったんだけど、いなかったから」と言う。
 その頃私のクラスは『ロミオとジュリエット』の舞台公演を控え、クラス全体が非常に忙しく、緊張している時期だった。ところが私は、その全体行動から一人はずれて、忙しくないどころか出演できるかどうかも分からず、もうこのままだったら結局自分は学校を辞めた方が良いんじゃないかと悩んでいるところだった。
「うん、まあね。結構休んだりしてたからなあ」
「私さ、試験を全然受けないで韓国に帰ったからね、3年生にあがれないで、2年生の、シュヴェデルスキークラスに編入させられちゃった」
「ふうん・・・新しいクラス、どう?」
「うん、前より楽。日曜日は休みだし、週に1回、練習のための日があって、その日はエチュードを練習する人以外は何にもないから、休んでもいいし」
「へえ、よかったねえ!」
 私がそう言うと、キョン・ユンは意外にも、ふっと眉を曇らせて、
「だけど私、もとのアンドレエフのクラスに戻りたくてさ」と言うのである。
「今の先生のクラスは楽で良いけど、なんだか自分のクラスではないと言うか・・・」
 キョン・ユンが言うには、卒業が1年延びて費用が余計にかかるのはまあ良いとして、なかなかクラスのムードに馴染めない。シュヴェデルスキー先生は深刻で真面目な、日本でいえば新劇みたいな方向を目指す人であり、アンドレエフのクラスが持っているようなユーモアや軽さがないそうなのである。自分はコメディーが好きで、それに向いていると思う。アンドレエフのクラスはまさしく自分のクラスだったのだと今になってわかったのだと言い、目を伏せた。
「だけど、私は試験を全然受けないで帰っちゃったからさ・・・」
 でも新しいクラスにはすぐ慣れるだろうし、やっぱり前のところみたいに週7日も授業があったら、いずれ精神的にまた無理が来るだろうから、今のクラスにかわって良かったじゃない、と私が言うと、キョン・ユンはそうかなあ、といいながら、やはりまだ腑に落ちないのだという顔をした。その日はそこで別れた。
 
 その2週間後くらいに私はまたキョン・ユンにビュッフェで会った。
 
キョン・ユンは私を見るとニコニコ笑って、
「あのさ、私、今日ロシア史の追試を受けて、受かった。これで、四つあった講義の試験は全部受かった」というのである。彼女は去年はほとんど講義には出ず、どうでもいいやと試験も受けていなかったそうなのだが、一念発起して、とりあえず単位だけは貰っておこうと決心したそうなのである。そして十日間ぐらいの間に先生から先生の間を飛びまわり、三日間連続で追試を受けたそうなのである。へえ、おめでとう!と私が声をあげると、
「まあ、試験って言っても、外人相手の試験なんていい加減なものだから。先生たちもこちらが留学生で言葉がダメだってわかってるから、たいしたことも聞かない。私がぐちゃぐちゃ言ってるのをじっと聞いてるだけで、言ってる事さえ向こうが分かればハイ終わりって感じ」
 そういってキョン・ユンはハッハッハと笑った。
「へえ、それじゃ、元のクラスに戻るの」と私が聞くと、それがそう簡単ではないそうなのである。
「リュドミーラ(留学生担当の学生課)はダメだって言うの。だって私、講義だけじゃなくて、実技の試験も全部受けなかったんだから。それに、もう二年生として学籍も移しちゃったっていうし、事務手続きもそんなにうまくいかないって言われた」
「アンドレエフ先生はなんて言ってるの」
「うん、戻ってきたければいつでも戻って来いって彼は言ってるんだけどね」
 その時、階段の向こうから、きれいにお化粧をした中年くらいの女性が近寄ってきた。
「キョン・ユン?元気?どうしてるの?元のクラスに戻りたいって、海外担当にちゃんと伝えた?はっきり言わなくちゃダメよ、この学校は押しの強さ次第でなんとでもなるんだから」と彼女は親しそうにキョン・ユンに声をかけた。
「ええ、言ってはみましたけど、留学生担当の人は、ダメだって言うんです。実技の単位を一つも取らなかったものだから」
「何言ってるの!レーチ(発音・発声)の授業の単位なら、私が出してあげる。他のダンスとかアクロバットだって、交渉すれば絶対に大丈夫よ。私が口添えしてあげる。とにかくね、単位云々は単なる海外担当のたわ言よ。面倒くさいだけなんだから、本気にしちゃダメよ。それじゃ、頑張って」
 高いきれいな声で、パララララと竹を割ってゆくように言うと、その女の人は手を振って行ってしまった。
「あの人ね、レーチのリュボーフ先生。すごく良い人なんだ」とキョン・ユンは去ってゆく後姿を見守ってしみじみ言った。レーチの先生の話は聞いたことがあった。何かと大変なキョン・ユンのことを、一年生の時からずっと気にかけ、特別に目をかけてくれ、色々と面倒を見ていた人である。私にとってのダンスのユーリー・ハリトーノヴィッチ先生のようなものだ。この先生の期待に応えたくて、キョン・ユンは一年生の時、毎回レーチの授業をテープに取り、そのテープを家に戻ってから聞き直すという恐ろしく面倒なことを続けていた。
「それで、今のクラスはレーチの先生も違うし、それもあってもとのクラスに戻りたいんだけど」とキョン・ユンは言う。
「むずかしいなあ・・・」 
 週に7日も授業のある、あれほど精神的に追いつめられたクラスに何故また戻りたいのか、計り知れない気がしたが、キョン・ユンはなんだかもとのクラスが恋しくて、意気消沈しているようだった。

 それからまた2週間後くらいに、ビュッフェでまたキョン・ユンに出くわした。キョン・ユンはダンス用のレオタードを着て、汗をぬぐっていた。ダンスの授業があったらしい。おやあ、と思い、
「あれ、踊っていいの?首は大丈夫なの?」と聞くと、
「うんあれさ、韓国に戻って医者に見せたら、一生涯運動しちゃいけないなんて事はない、大丈夫だって言われた。こっちのは誤診だったみたい」と言った。

「そんなこともあるんだねえ」
「ロシアの医者はあてにならん」
 買ったばかりの冷たい水のペットボトルを額に当てると、キョン・ユンは突然思い出したらしく、
「あのさあ、クラス、元のクラスに戻れた!」と大声で言った。
「へえ、おめでとう。でもあんな忙しい大変なクラスに、よく戻る気になったね」とため息をつくと、キョン・ユンはまた低い男みたいな声でハッハッハと笑って、
「まあさ、何とかなるかと思って」と言った。
 ああ、もう大丈夫なんだなあと、私はつくづく思った。
 

 これは、地味なようでも、私の知っている中で、一番鮮やかな復活劇である。自分の復活劇でないのが残念だし、私一人を情けないまま置いて、どこか雄々しい高みへ上昇していった感じのキョン・ユンが少し恨めしかったりもするけれど、それでも、人生において、こういう例をちゃんと知っているということは、得にこそなれ、損になるものではないだろうと思う。キョン・ユンのことをだらだら長く書いてきたけれど、私が言いたいことはようするに、人間はだめでも頑張ることもできると、そういうことである。自分がダメな時には、いつでもキョン・ユンを思い出さなければいけない。
 と、そんなことを思って、それにひきかえ、私はダメだなあ、頑張らなきゃなあ、ああ、もうだめだなあとため息をついて、青黒い顔で毎日を過ごしていたある日、またばったりキョン・ユンに廊下で出会った。キョン・ユンは持ち前のニヤニヤした笑い顔はしていたものの、暗い口調で、私に会うなり言った。「わたしさあ、この三日間、学校サボっちゃった・・・」 ああ、私たちは似た者同士だなあと、私は思わず笑ってしまった。